2010年05月26日

2010.4.24 劇団四季『サウンド・オブ・ミュージック』作品・演出感想メモ

5月22日マチネの感想を書く前に、4月24日マチネで演出などについて感じたことについてのメモをアップします。
以下、舞台についてのネタばれあります。今更かもしれませんが。

○舞台版と映画版の構成の違い
まず、舞台版と映画版とで曲順が違っていることに驚いた。‘My Favorite Things'や「ドレミの歌」があんなに早く出てくるとは思わなかった。後で調べてみたところ、これは映画のもととなったブロードウェイ・オリジナル版そのままの順番らしい。今まで映画のサントラしか聴いたことなかったからなあ……。
実際、舞台版から再構成した映画版の方が「物語」としてはずっと自然に進行してゆくように感じられる。特にマリアとトラップ大佐の関係が変化してゆく過程など、舞台演劇という制約があるにせよ、舞台版で充分に描けているとは到底言い難い。その点では、映画版でのアレンジはなかなかでは、と映画のおぼろげな記憶をたどりつつも感じた。
そんなことを思いながら観ていたが、演出と、演出家からしっかり演出の意図を叩き込まれたであろうキャストのこなれた演技によりさほど違和感を感じることなく、むしろスピーディーな感覚でさくさくと観ることができた。今後新しく他のキャストが入ってきた時にも、初演キャストと同じくらいの密度で演技指導を入れる必要があろう。

○「ゲオルグ、空気読んでよ」
アンドリュー・ロイド=ウェバー版『サウンド・オブ・ミュージック』は映画版以上に政治的背景を強調しているとの評判を事前に耳にしていた。
例えばトラップ大佐と婚約者エルザとの破局は、映画版では確か、“ヴィーンの華やかな生活を愛するエルザには子供たちの母親役にも無骨者で生真面目な大佐の連れ合いにも向かず、本人もそのことを自覚して去ってゆく”という感じだったような覚えがある。
しかし今回のヴァージョンでは、“ナチス・ドイツのオーストリア併合についてエルザが長いものには巻かれろ式の考えでおり、大佐にも「周りの人のことも考えて空気を読んで」と訴え、信念を曲げられない大佐は彼女についてゆけず破局に至る”という筋書きになっていた。もっともこの部分もまた、オリジナル版から踏襲したもののようである。
映画版では、オリジナル版から2曲をカットしている。まず第1幕、ザルツブルクの大佐邸を訪れたエルザとマックスの2重唱‘How Can Love Survive’。大富豪どうしの恋愛はかえって大変だという内容の、少々皮肉な歌(今回の舞台ではそれに類した台詞をマックスが発していた)。

http://www.youtube.com/watch?v=xuYv-_8VXGQ&NR=1

そしてもう1曲は、第2幕で歌われる‘No Way to Stop It’。エルザとマックス、そして大佐の3重唱。あくまで反ナチの姿勢を崩そうとしない大佐に、他のふたりが保身のためにも時勢に逆らわない方がいい、と説得を試みる歌。長調の、軽快で陽気な曲だけに、かえって内容の辛辣さが浮かび上がる。

http://www.youtube.com/watch?v=ThJIvijGHrg&feature=related

この作品が、決して子供向けに作られたわけでないことがうかがえるナンバーである。一方、映画版でこのナンバーが‘How Can Love Survive’と共にカットされた理由も何となく分かるような気がする。
今回の劇団四季の舞台では上演時間短縮のためか、映画版同様この2曲はカットされていた。それまでは映画版しかなじみのなかった私はこのカットに気づくよしもなかったし、逆にどちらかでも入っていたらびっくりしたに違いない。ただ、これらの歌の存在を知った今としては、時代背景を強調しているとうたうのならば、少なくとも‘No Way to Stop It’は残しておいてほしかったように思う。もっとも、エルザを演じている坂本里咲が素晴らしい歌い手である(10数年前、『美女と野獣』のベル役で彼女を観たが、歌唱も演技も容姿も役のイメージどおりの、パーフェクトなベルだった)ことを考えると、当初は四季版でもこのナンバーを歌うつもりだったのかもしれない。
坂本エルザは、映画版よりは子供たちの母親になる努力もしてくれそうな雰囲気を漂わせていただけに、気の毒に感じた。

○ある意味、より人間的?
4月24日の感想文で、
「完璧な人間というわけではない大佐が……」
と書いたが、実は今回の舞台を観て一番驚いたのは、舞台版のトラップ大佐の描写が映画版に比べ弱点や欠点を強調しているようにみえたことである。映画版のトラップ大佐は頑固であっても包容力と温かさを持ち合わせた魅力的な大人の男性というイメージだった。しかし今回の公演では、大佐は最初から最後まで一貫して、不器用でどこか子供っぽく、自分の感情にも他人の感情にも鈍感で、善人は善人だがちょっと困った、頼りない部分をも持ち合わせた人として脚本の時点で設定されているように感じられた。もともとオリジナルの脚本からしてそうなのかアンドリュー・ロイド=ウェバーの改定のせいなのかは分からないが。
彼が愛国者でひたすら反ナチなのも、もちろん彼の信念を曲げない意志の強固さの表れであり硬骨漢であるゆえんなのだが、逆に言えば融通がきかず視野が狭く、周囲に対する配慮(それこそ家族の安全!)が足らずしたたかさに欠けている、と言い換えることも可能である。我ながら驚いたことではあるが、彼にもう少し“柔軟に”振る舞うよう説得を試みて失敗するマックスとエルザに妙な同情を覚えてしまった。彼らはそれこそ彼らなりに大佐のことを思って言っているだけに、なおさら。
映画版ではここまで大佐の人としての不器用さや幼さ(子供たちの方がずっと大人だと思えるシーンがいくつもあった!)を強調してはいなかったような気がするのだが……。特に第2幕では大佐の言動にちょくちょく突っ込みを入れていたような気がする。「娘を疑うなんてひどいよ父ちゃん」「そこ、『嫌』と『だめ』とをごっちゃにしない!」「時間の制約があるのは分かってますけど5分で結婚相手を替えるんかい」「あれだけみんな危ない危ない言ってたってのに今さら『こんなに早いとは』って! 呑気に新婚旅行とか行ってる場合じゃないよ!」「ちょ、音楽祭ではちゃんと歌わないと疑われる……!」「『あの山を? 子供たちを連れて?』って、だから今さら何を言ってるんだー!!」……第2幕の主役は大佐ではないか、と書いた理由は、そんなところにもある。

ただ、突っ込みを入れたのはほとんど台詞そのものについてであって演技にではなかったし、鈴木綜馬は下手をすると情けない男になってしまいかねないこの役を、常に気品とほどよい威厳を崩すことなくスタイリッシュに演じとおし、誇り高い軍人貴族としての気高さとひとりの男としてのナイーヴさをバランス良く両立させていた。俳優の演技の問題というよりは脚本の問題のように感じられてならない(と、この時は思っていた)。
少なくとも、彼が先妻の死後極端な教育方針を子供たちに強いたのは、愛妻の死のショックのあまり人変わりするほど心を閉ざしてしまったというより、降りかかった大問題にひとりでは対処できず――不幸な状況に耐えて子供たちを支えるに充分な精神的強さも余裕ももとより持ち合わせず、かといって他人に助けを求めることも性格的にできず、ひとりパニックを起こしてしまったせいである、と今回の公演を観て初めて理解できた。
そしてそんな彼は、どんな時であろうと意志を貫く、一生懸命で優しく気高い善き人であり、なんだかんだいって(子供たちを規律で縛っていた時ですら)自分の子供たちを心から愛している。そして、この不器用で弱い面も持ち合わせる父親を、子供たちはそのまままるごと受け止め、こよなく尊敬し愛している。そして、マリアもまた。第2幕の‘Edelweiss’、途中で言葉に詰まってしまった彼を守るように妻子が寄り添い、皆で声を合わせて歌うシーンには、この家族の本質がそのまま表現されている。この作品は、世の頑張るお父さんたちへの応援歌でもあるのでは、とこれまた初めて感じられたことであった。
posted by ぶらっくたいがあ(元ユルシュール) at 22:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 舞台鑑賞(ミュージカル) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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