2010年07月05日

2010.6.29 英国ロイヤル・バレエ団『ロミオとジュリエット』(東京文化会館)

3階2列中央。

ジュリエット:吉田都
ロミオ:スティーヴン・マックレー
マキューシオ:ブライアン・マロニー
ティボルト:トーマス・ホワイトヘッド
ベンヴォーリオ:セルゲイ・ポルーニン
パリス:ヨハネス・ステパネク
キャピュレット公:ギャリー・エイヴィス
キャピュレット夫人:ジェネシア・ロサート
エスカラス(ヴェローナ大公):ベネット・ガートサイド
ロザライン:タラ=ブリギット・バフナニ
乳母:クリステン・マクナリー
モンタギュー公/僧ロレンス:アラステア・マリオット
モンタギュー夫人:ローラ・マッカロク
ジュリエットの友人:リャーン・コープ/ベサニー・キーティング/イオーナ・ルーツ/
           エマ=ジェーン・マグワイア/ロマニー・パジャク/サビーナ・ウエストコム
3人の娼婦:ラウラ・モレーラ/ヘレン・クロウフォード/フランチェスカ・フィルピ
マンドリン・ダンス:ホセ・マルティン/ポール・ケイ/蔵健太/ミハイル・ストイコ/
           アンドレイ・ウスペンスキー/ジェームズ・ウィルキー
ボリス・グルージン指揮
東京フィルハーモニー交響楽団

 前売り券は当然取れず、当日無理を承知でキャンセル券目当てに並んでみたところ、開演1時間前にスポンサーから戻ってきたチケットを取ることができた。しかも3階中央の良席。なぜか目の前の席が空席だったため、視界を妨げるものが何もないという、これ以上ない環境だった。これで今年の観劇運は使い切ってしまったような気がしないでもない。
 観賞後は深い感動と共に言いようのない疲れを感じ、その疲れが数日抜けなかった。今年は、ここ数年の自分自身の“不調”からはだいぶ立ち直れたように感じていたが、まだ本調子ではないことを改めて感じた。したがって感想の内容も薄い。どうかご了承ください。

 今回の舞台で再確認できたのは、ことバレエの『ロミオとジュリエット』に関しては、舞台展開と共に大きく変化してゆくのはロミオよりジュリエットである、ということ。本質的にはロミオはさほど変わらず、最初の登場から最終幕に至るまで、ほとんど原形をとどめないほどにどんどん変貌していってしまうのはジュリエットなのだ。
私が吉田都を観たのは今日が初めてだが、不遜なことを書かせていただくと、彼女は圧倒的な存在感で舞台を制するというよりは、それほど派手に自己主張しているわけではないのにどういうわけか目を離せなくなるタイプのように思われる。
 今回の彼女の踊りは、1ヶ所だけ惜しいミス(ともいえないような些細なもの)があったのを除くとほぼ非の打ちどころのないものといってよかった。技術面において年齢をほとんど感じさせず、これ限りでロイヤルの舞台を退くというのが信じがたいほどだが、彼女自身としては、このアクロバティックなマクミランの振付を余裕を持って踊れるうちに……という心づもりなのかもしれない。
 しかし、彼女の何より素晴らしいところは、その完璧なテクニックが全て表現に奉仕しているところにある。森下洋子と共通するものを感じた。いや、吉田や森下に限らず、偉大な表現者はみなそういうものなのだろう。
 森下と共通する、といえば何より、あの「出てくるなり13歳の少女にしか見えない」というあの驚異的な愛らしさだ。人形片手に乳母に飛びつく、まだ初潮すら迎えていないかもしれない幼い少女。もちろん体型的に有利という点もあるだろうが、これを違和感なく表現できるのは、かえって経験を積んだベテランに限られるのかもしれない。
 その子供、結婚とは何かということすら理解できていないような子供が、パーティーでのロミオとの出会いをきっかけに変貌してゆく。ロミオと最初のまなざしを交わし合った時の、黒い稲妻が静かに身体に落ちたような衝撃もさることながら、ロミオに初めて抱えられて踊る彼女を観て、彼女はこの瞬間初めて「身体をもって男性を意識した」のだとはっきり理解でき、ぞくりとした。
 第1幕最後の有名なパ・ド・ドゥと、第3幕冒頭のパ・ド・ドゥでのジュリエットの違い。性を身体全体で感じながらもまだ一線は越えていない微妙な時期の交歓と、すでに完全に“女”になってしまってからの逢瀬。第3幕、偽りの求婚の承諾を与えようと決意しながらも、いざパリスと踊ると身体が彼を拒絶してしまう。身体全体で泣き叫ぶかのような吉田ジュリエットの踊りに、女の哀しみと一種の凄み、おそろしさのようなものすら感じた。
 大詰め、ロミオの亡骸を抱いて天を仰ぐ彼女には、悲嘆や絶望といったものを通り越して昇華に近い印象を抱いた。自決し、ロミオに手をさしのべつつこときれてゆく彼女の姿に、静かなカタルシスが胸の中に広がった。これが、ジュリエットにとって、ロミオとの愛を成就させる唯一の結末だったのだとはっきり分かったからだ。
 もちろん、相手役スティーヴン・マックレーの好演も心に残った。見た目も軽やかで勢いのある踊りも、疑いなく16歳のロミオそのもので、吉田ジュリエットとのコンビはまさに設定どおりの青春カップルだった。マクミラン版『ロミジュリ』の最大のコンセプトが何より「青春の情熱と破滅」であると私が理解できたのも、このカップルあってこそだろう。技術が素晴らしく、第2幕、乳母からジュリエットの手紙を受け取り喜びのあまりくるくると彼女の周りを回るところはすさまじい速さで、思わず感嘆の声を挙げそうになってしまった。
 脇もさすがロイヤルというべきか、演技も踊りも実に見事だった。特に印象に残ったのはトーマス・ホワイトヘッド演じるティボルト。私はもともとこのキャラクターが好きで、今まで観た『ロミジュリ』でもこの役に関しては松山バレエ団の金田和洋、新国立劇場バレエ団のゲンナーディ・イリインと名演ばかりに出会ってきたが、今回のホワイトヘッドにも大満足だった。大柄というわけでもなく、一見地味な雰囲気にすら見えるのだが、家の中ではいい子ぶろうとしながら外では欲求不満を爆発させる、荒れた青年といったキャラクター作りが作品にも非常にしっくりと合っていた。今まで観てきたティボルトはロミオ&マキューシオ&ベンヴォーリオのトリオよりもかなりの年長に見えたが、今回はトリオと同い年とまではゆかずとも数歳しか違わないくらいに見えたのも良かった。
良い意味でリラックスした、しなやかな踊りぶりのブライアン・マロニーのマキューシオ。ローティーンの子の父にふさわしい、若々しくハンサムで娘を心から愛しているギャリー・エイヴィスのキャピュレット卿。ティボルトの死に対する動物的といってもいい悲嘆の舞が強烈だったジェネシア・ロサートのキャピュレット夫人。端正な紳士なのにどうにも鼻もちならない雰囲気の漂うヨハネス・ステパネクのパリス。みな、素晴らしかった。
 マクミランの『ロミジュリ』を生で観るのは新国立劇場バレエ団の公演に続き2度目になるが、さすがに前回よりは目が届く部分もあったように感じる。その演出の、「演劇」としての練りこまれ具合にも感服するところもあった。しかしこうして観終えてみると、やはり、私はマクミラン版『ロミジュリ』が苦手だと言わざるを得ない。一度ではとても目で追い切れないほどの、過剰なまでの情報量がシーンごとに盛り込まれているわりに、必ずしもその情報全てが作品全体に生かされているのか否か、分からないところもあったのだ。あるいは私自身に、マクミラン版についてゆけるだけの読解能力がないだけかもしれない。いや、おそらくそうなのだろう。同じマクミランものでも、『マノン』や、映像だけだが『うたかたの恋』などは素直に作品に入り込めたのだが……

 カーテン・コールの途中で抜けなければならなかったが、客席に、そして仲間たちに深々と頭を下げる吉田さんの姿、観客の熱狂(1階席はほぼスタンディング・オベーションだった)そして彼女を見つめるロイヤル・バレエ団員たちの温かい視線に、一時代を築いたバレリーナ・吉田都のひたすら謙虚で誠実な姿勢と、彼女が本当に多くの人々に心から敬愛されていることを知ることができた。この場に居合わせることができて、本当に幸せだった。
posted by ぶらっくたいがあ(元ユルシュール) at 09:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 舞台鑑賞(バレエ) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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