2010年09月30日

2010.8.7 佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2010 『キャンディード』(Bunkamuraオーチャードホール)

1階36列下手寄り中央。

ヴォルテール/パングロス/マーティン:アレックス・ジェニングズ
キャンディード:ジェレミー・フィンチ
クネゴンデ:マーニー・ブレッケンリッジ
オールド・レディ:ビヴァリー・クライン
大審問官/船長/入国審査官/ヴァンデルデンドゥール/ラゴツキ:ボナヴェントゥラ・ボットーネ
バケット:ジェニ・バーン
マクシミリアン:デヴィッド・アダム・ムーア
カカンボ:ファーリン・ブラス
将校1/審問官1/ドン・カルディナーレ/ジャズ・バンド・ミュージシャン/テキサス人1/元イタリア大統領:エイドリアン・ブランド
船員/審問官3/乗務員1/テキサス人2/元ロシア大統領/たかり屋:サイモン・バタリス
男爵/密告者2/審問官2/乗務員2/福音派の牧師/ヴァンデルデンドゥールの運転手/元アメリカ大統領:フィリップ・ジェイムズ・グレニスター
将校2/密告者1/死刑執行人/入国管理補佐官/インディアン/元フランス大統領/ドン・イサカー:スティーヴン・ペイジ
イーストファリア将校/再洗礼派のジェイムズ/審問官4/ジャズ・バンド・ミュージシャン/テキサス人3/元イギリス首相:フィリップ・シェフィールド
男爵夫人:ブレンダ・ニューハウス
物乞い:ティエリー・ロリオン
佐渡裕指揮
兵庫芸術文化センター管弦楽団
ひょうごプロデュースオペラ合唱団
矢澤定明合唱指揮

 まず、6月に観たジョン・ケアード版と曲順が大きく変わっているのに驚いた。私がこのミュージカル(プログラムには「コミック・オペレッタ」とあった)に触れたのはケアード版が初めてで今回が2度目、その間CDなどによる予習/復習は一切していない。バーンスタインはこの作品を最晩年まで何回か改作しているそうだが……やはり予習復習はするべきだったと少し後悔した。実際、「シャトレ劇場版」と銘打たれた今回のプロダクションは明らかに演出に合わせて台詞を変更している個所がいくつもみられたので、曲順も演出の意図によるものなのかもしれない。それにしてもカカンボが歌わないとは……びっくりした。

 演奏において6月の公演と最も大きく異なっていたのは、何よりオーケストラの響き。6月の帝国劇場のオーケストラが小編成だった(と思われる)ことも関係しようが、音色のゴージャスで豊饒な響き、しなやかさ……正直申して、比較にならない。佐渡裕も兵庫芸術文化センター管弦楽団も生で聴くのは初めてだが素晴らしい演奏で、バーンスタイン節を堪能することができた。
 実は、海外のプロダクションによるミュージカルを観るのは今回が初めて。いわゆる“本場”(ブロードウェイ、ウェスト・エンド、ヴィーンなど)のミュージカル観劇経験のあるファンには、日本のミュージカルおよびミュージカル役者を低く評価する傾向にあるように感じる。確かに声質や、主役からアンサンブルに至るまでの粒の揃い具合などは本場に一歩譲るものの、日本のミュージカル役者が格段に見劣りするほどには思えなかった。どちらかというと、歌唱面以上にダンスの迫力に目を奪われた。特に異端審問の場面での狂気と激情をあらわにしたダンスは出色の出来で、ミュージカルでアンサンブルによるダンスシーンにこれほど感動したことはなかった。
 役者の中では、英語にフランス語、ちょっぴり日本語も交えて舞台の狂言回しを見事に務めあげたアレックス・ジェニングズの芸達者ぶり、ボナヴェントゥラ・ボットーネの美声などもさることながら、最もインパクトが強かったのは老女役のビヴァリー・クラインだった。『レ・ミゼラブル』ウェスト・エンド初演でクローン2(かつら屋)を演じた女優である(声ですぐに分かった)。他の共演者に比べて非常に小柄な人なのだが、非常に個性的な声とパワフルでくせのある演技、堂々たるたたずまいで、舞台に立っている誰よりも強烈な存在感を放っていた。思えば、6月のケアード版でも一番強く印象に残ったのは阿知波悟美の老女だった。この役はいわゆる儲け役なのか、あるいはよほどの実力者でないと演じきれない/歌いきれない役なのか。後者のような気がする。そして私が観たいずれのプロダクションも、はまり役の役者を見事に選んでいたと思う。タイトルロールを演じたジェレミー・フィンチは歌も演技も過不足なく申し分ない。METナショナル・カウンシル・オーディション地区優勝者でもあるというマーニー・ブレッケンリッジの歌唱は、クネゴンデという役がオペラを専門とするコロラトゥーラ・ソプラノのために書かれていることを再確認させてくれるもので、快感だった。(※1)しかしその彼女ですら‘Glitter and be Gay’の後半部はところどころきつそうに感じられ、この有名なアリアがプロのオペラ歌手にとってもどれほど難しい曲か、ということをも改めて確認させられた。

 舞台全体を巨大なテレビに見立て、舞台を「アメリカ」に――バーンスタインがこの作品を作曲した時代に近い1950〜60年代の、あるいは一種の“象徴”としての「アメリカ」に移し替えたロバート・カーセンの演出には多大な感銘を受けた。読み替え演出の醍醐味と同時に、読み替え演出の限界のようなものも感じたというのが本音だ。
 確かにあの固有名詞はあれど漠然とした――現代の観客にとってはほとんどファンタジーに近い舞台の世界観に「アメリカ」という具体的で身近な表象を与えることで、いわば超展開の連続で一見支離滅裂にさえ映るこの作品のテーマの現代性・切迫性を非常に分かりやすい形で示すことに成功している。反面、舞台を「アメリカ」といわば限定することによって、この作品の持つ普遍性にも一種の歯止めがかけられた可能性があるとはいえないだろうか。前述したとおり、ヴォルテールが生み出しバーンスタインが友人たちと共にミュージカルという形で再生産した『キャンディード』のテーマはきわめて普遍的で、どの国家にもどの社会にもあり得ることだ。無論、プログラムでも説かれていたとおりバーンスタインは『キャンディード』を作曲するにあたり自分の置かれていたアメリカという国の状況・背景を強く意識していたろう。しかしこの作品の神髄は「アメリカ」だけに当てはまるようなことではなかろう。
 今回の『キャンディード』に「アメリカ」に対する風刺・批判を感じ、「アメリカ」を笑いのめすあまり、同じことがどの国にも――当然自分の身を置いている国にも当てはまる、ということを見逃してしまうことにつながるのでは、という見方は杞憂なのだろうか。(※2)。確かにカーセン版も六王の舟歌(今回のプロダクションでは第二幕の中盤で五つの大国の元国家元首たちが“黒い海”上にて与太まじりに歌うシーンになっており、ケアード版とは全く異なった効果を作品中で発揮していた)やラストシーンで、この作品のテーマが「他人事ではない」と観客に明確に警告してはいるが……。作品の普遍性を伝えるという一点においては、少なくとも私にとっては、シンプルなセットと小道具でファンタジックな世界を表現したケアード版の方がより強く感じられた。この作品は具象的というよりはむしろ抽象的で、それゆえにいつの世にもどこの社会にも通じる真実を表現し得ているように思われてならないのだ。

(※1)プログラムに掲載されていたバーンスタインのエッセイでは、「F#の高音がブロードウェイ・ミュージカルにふさわしいか否か」について悩んでいた様子が書かれている、というより自らネタにしている。
(※2)カーセンはアメリカ人だっけ? と気になってプログラムを開いてみたところ、カナダ人とのことだった。
posted by ぶらっくたいがあ(元ユルシュール) at 23:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 舞台鑑賞(ミュージカル) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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